お金の縛りから開放する為

”お金”に対する私の人生

”お金”に関して無頓着だった私

私は幼少期から、”お金”について無頓着だった。
それは、とても幸せなことである。

なぜならば、
”お金”の事は心配する必要がなかったからだ。

生まれたときから、物心つくまで
お金に困ったことはなかった。

決して裕福ではなかったが、
親は一生懸命家族のために頑張ってくれていたから、
3人兄弟の三男坊である私を育ててくれたのを感謝している。

”お金”について意識しだしたのは、中学生の頃。

長男の兄が大学に行きたいと言い出した。
「俺は医師になるんだ、人を救うのだ!!」

子供心に私は
「お、おう。頑張れー!!」

って感じ。
あまり深い意味はわかっていなかった。
けど、兄が好きだったので、応援をしていた。

しかしながら、
兄の頭では国立の大学は行けない。
残った道は私立の大学に通うことだった。

でも、
大学の費用ってどのくらいかかるのだろう。。。
中学生の私は、”お金”の事は聞いては行けないものだと思っていた。

私「兄ちゃん、大学行くのにいくらかかるの?」
母「子供はそんなこと知らなくていいの!!」

うちの家計は”お金”は卑しいものと言う感じだった。
”お金”にがめついてしまうと心が汚れてしまうかのようだ。

しかし、大人になるに連れわかっていったのだが、
母がなぜそこまで”お金”について、
私に教えてくれなかったのかがわかった。

母も父も、
過去にお金で沢山苦労をしてきたからだ。

時代が時代だったからかもしれないけれど、
縁が切れてしまった家族もいたり、
保証人になってしまったり。。
借金の肩代わりになってしまったり。。。

だからこそ、
父は一生懸命働いた。

子供にそんな思いをさせたくないから、
母は私に、見せたくない世界を遮断しただけだったかもしれない。

兄がブチギレ家族崩壊

兄が大学へ行きたい!
しかし、国立の大学はとても合格はできず、
私立の大学へ行くしか選択肢がなかった。
 
親は、子供の夢を叶えてあげたいのだけれど、
国立と私立の大学費用は雲泥の差

ざっくり約2000万円の差がある


親は共働きで働いていたけれど、
うちには約2000万ほどのお金がなかった。

兄もわかってはいたけれど、
医者以外の選択肢がなかったので、
親と喧嘩をしていた。

兄「お金持ちの家に生まれればよかった!!」
母「うちはお金がないのよ!!!」

日に日に悪化する
兄と母。

私が家に帰ってくると、
毎日のように兄が母と喧嘩をしていた。

兄はガリ勉で
毎日のように、勉強をしていた。
努力すれば、大学へ行けると思っていたのだろう。

高校3年生の兄は、
部活動も終わり、学校が終わっては
家で寝るまで勉強をしていた。

スポーツもしていなかったので、ストレスもたまっていたのだろう。
母と喧嘩をしては、壁を殴っている日々が続いた。

兄も、この気持をどこに発散していいのか
わからなかったのだろう。

こんな日々を過ごしていたので、
三男坊の私は兄を見ながら育った。

私がわがままを言ったら、
母を苦しませることになる。

こんな毎日を見たくない。
母を悲しませたくない。
”お金”の事でこれ以上家族崩壊になってほしくない。

この時、
父はなんとかして子供の願いを叶えてあげようと、
仕事をかけもちして頑張ってくれていた。

ただでさえ、生活リズムが悪い、
運送会社の夜勤の仕事をしていたのにもかかわらず。
仕事が終わった後は、
ビルの清掃を掛け持ちしていた。

見えない所で親が頑張ってくれていた。
子供の願いを叶えたいという思いで。

それが数ヶ月たった頃の話。
母から緊急で電話があった。
私は中学生だったので、学校に電話があった。

私「どうしたの?学校に電話なんて・・」
母「お父さんが倒れたの・・」
私「え!どういうこと??」

父が倒れた。
過労のようだった。

病名は脳梗塞:
脳梗塞とは、脳の血管が突然詰まって、血流が途絶え、
脳の神経細胞が死んでしまう病気です。

不幸中の幸いで、
仕事中に倒れたということで、すぐに搬送され、
大きな後遺症は残らなかった。

しかしながら、すぐに復帰はできず、
病院での生活となった。

兄の思いと、父の思い。
両方叶えてあげるには”お金”が必要だと感じた。

高校卒業後に努めた仕事は家電量販店

中学生時代に、
こんな毎日を見ていたので、
私は兄のように進学を望まず、就職を選んだ。

進学をすれば、大学の費用がかかる。
しかし、
就職をすれば、家庭は助かる。
選択する時間はかからなかった。
それが一番だと思った。

高校選びも、就職をするので、
”普通科”ではなく”電子機械科”に入学。

親から
母「国家資格は一生有効だからたくさんとりなさい。」
と言うふうに吹き込まれていたので、
取れる資格は全て取得した。

・危険物取扱者乙4種
・第2種電気工事士
・ボイラー技士
・アナログ工事
・ガス溶接
・アーク溶接 等々
学校で取得できる資格は全てとった。

でも、職人になるわけでもなく
就職したのは、小売業の家電量販店に就職した。

当時は売上だか日本一の某家電量販店に就職。
元々家電製品は好きだったので、
携われる事が好きだった。

工場での就職は給料が高かったのは知っていたけれど、
高校時代、工場でのアルバイトで、
どんな仕事内容かわかっていたので、
工場勤務は興味なかった。(ベルトコンベアで流れてくる物を仕分け)

初年度の給料は18万円。

始めてもらった給料の感想は。
私「わー、こんなに貰えるんだ!!ひゃっはー!!!」

高校時代、
アルバイトで1カ月にもらえる給料は
良くても10万円ほどだった。

それと比べると、とても嬉しかった。
実家暮らしだったので、
毎月それだけもらえれば、
貯金も出来るし、自宅に少しでもお金を入れる事が出来るし。

とまぁー。
最初の頃ってみんなそうだったと思うけれど、
初めての給料はとても多く貰った気がした。

それから2年間某家電量販店で働いた。
お金はそこまで使わなかったので、
毎月5万ほど貯金をして、
1年で60万程貯めた。

2年間働いたので
貯金は2年×60万=120万

私はこの後、
自分のやりたかった事へ、
このお金を使う。

それは、
音楽の専門学校だった。

好きな事に生きた20代

一生働ける仕事ってなんだろう。
家電量販店の仕事は人間関係にも恵まれ、
日々大変ではあったけれど、初めての仕事という事もあり、
比較する経験がないので、とてもやりがいのある仕事だった思う。

しかし、
20歳そこそこの私は、
このまま人生を終わらせてしまいたくはないと思い。

自分のやりたい事をやろうと決めた。
それが”音楽”だった。

高校時代バンドを組んでいて、
私の担当はドラム。

練習やライブが最高に楽しかったので、
あの感動をもう一度実現したくて、
音楽の道に進んだ。

本当は就職する以前にやりたかったのだけれど、
親に専門学校の費用をお願いすることも出来なかったし、
それに、兄の事でそれどころではなかったので、
2年間就職をして、ひっそりと自分のお金で専門学校へ行こうと
考えていたのだ。

それなら誰にも文句はかけない。
自分のお金で行くのなら、誰にも文句を言われない。

東京での生活

専門学校は東京にあったので、
群馬で生まれた私は、東京に行くことを決意。

しかし、現地での生活は全く想像がつかなかった。
どこに住んだらいいやら、
どこで仕事をしたらいいのやら、、
そんな事を考えていたら、行動が出来なくなりそう。

そんな矢先、うちの父が声をかけてきた。
父「うちと会社でアルバイトしたらいいよ、会社の寮もあるから。」
私「ほんと?それはいいかも!」

うちの父は東京にある運送会社に勤めていた。
2tトラックで日経新聞の束を配達する仕事だ。
配送ルートは決まっていて、
豊洲にある、東雲工場から高速で23区の販売所へ配達。
時には、地下鉄のキヨスクに届けたり、
時には、23区内の大学に届けたり、
とても楽しかった。

運転は得意な私、
意外と何でも器用に行えるので、
車の運転はお手の物だった。

普通自動車しか運転したことなかったけれど、
2tトラックの操作も、なんなくクリア。
(ギアの操作とか、普通自動車と異なる。。)

仕事時間:22:00~6:00(深夜)
給料(日給):8000円

仕事は慣れたらとても簡単だった。
配送する新聞が印刷されるまで、何もすることがなかったので、
寝るなり、TV見るなり、何をしていてもOK。
(当時はスマホがなかったからすることがない。)

配送中も、
首都高を毎日走っているので、
暇だったので、頭文字Dの影響で
ヒールアンドトゥーをしてみたり。
ギリギリまで攻めてみたりと、
暇な仕事を楽しんだ。

この時はタバコを吸っていたので、
珈琲片手に、タバコと言うお決まりのスタイル。

住まいはと言うは、会社の寮だったので、
家賃は0円。

と言っても、
会社の寮はただの”仮眠室”だった。

8畳1部屋に2段ベッドが4つあって。
計8名が寝ていた。

これが”会社の寮”
お風呂や食堂、トイレ等は共同。

とてもじゃないが、
自分の部屋とは大違いだ。

仮眠室なので、
部屋にはいったら静かに物音を立てずに行動。

専門学校へ行くときは、
目覚まし時計がなったら、
直ぐに止めて、静かに起きる。
(他の人は寝ている。)

家とは呼べない仮眠室。
しかし、ほとんど日中は専門学校へいるし、
夜は毎日アルバイト生活なので、
寝るだけの部屋だけで十分だった。
お金はたまるし、学校で練習は出来るし。

同じ20歳の人と比べたら、
十分な給料をもらっていたので、
”お金”に困ったことはなかった。
暮らしていくうえでは。

必要最低限の生活

専門学校へ入ってからの4年間は、
毎日練習して、週末はライブ。
メジャーデビューを夢見てミュージシャンの活動をして来た。

しかしながら、
バンドは解散し、自分の夢は途方に暮れる。

人生何がやりたいのかわからなくなる。。
一度何もかもリセットして、
自分を見つめなおしたい。

そんな気持ちが高まって、
数か月後にはオーストラリアへ行った。
ワーキングホリデーで1年間の留学。

この期間の間は、テーマである”お金”にあまり関係がないので、
割愛をする。(お金が無くても、水準を下げれば幸せだった。)

 

日本に帰ってきてから、人生何がやりたいのかわからないので、
興味がある仕事は片っ端から就職してみた。

・法人営業
・海外営業
・通信営業
・家電量販店
・ドラックストア
・人勢派遣
・プログラマー
・事務
・介護職
・工場
・塾の講師
・コンビニ
等々

人生1度きり、
30代になるまでに一生働ける仕事を探した。
だって、人生の半分は仕事で終わる。
そう考えたら、30年間働ける仕事を見つけなければいけないでしょ。

しかし、現実はそう甘くない。
”給料”よりも”やりがい”のある仕事を選んだけれど、
一生働ける仕事はなかった。

私の努力が足りないといえばそれまでだけれど、
何をやっても、
”つまらない”
”面白くない”
”これ何のためにやっているのかわからない”
”人間関係が悪い”
”自分がやる仕事ではない”
”言われた仕事ができない”
”勝手に効率を求めて業務を変えてしまう”
とまぁー、色々な理由で会社に入ってはやめてを繰り返した。

振り返ってみると、
人間関係に一番苦労をしたといえる。

会社組織の中で、”お金”をたくさん貰うには、
上を目指さなければいけない。

通信の営業をやっていた時は、
・アルハラ
・セクハラ
・モラハラ
・パワハラ
「ハラ」という言葉がつくものは、
全部ありそうな会社内だったので、
人生に疲れていた。。

詳しくはここに書いています。

会社員である限り、
組織のてっぺんより給料は安いのが
世の常識。

20代でたくさんの仕事をして来たけれど、
振り返ってみると、”お金”縁がなかったか。

私は結婚をしていなし、(何回かチャンスはあったけれど)
欲しいものも特になく、
まして、やりたいこと、成し遂げたい事、
挑戦したい事。
などなかった。
と言うより、未来が想像出来なくて、
自分のやりたい事って何だろうといつも考えていた。

生活は必要最低限。
物欲もない。
だから、会社の給料でも十分暮らせて行けた。
でも、本当は我慢していたのかもしれない。。

”お金”を意識したのは独立してから

30歳になるまで沢山転職を繰り返した。
だって、一生働く仕事を選ばなくてはいけないなら、
少なくても30年間は働ける仕事を見つけなければならない。

私にとって、そんな都合のいい職場なんてなかった。
どこへいっても、悪い所が見えてしまったり、
人間関係がこじれてしまったりで、
1つの場所にとどまる事って無理だった。

俗に30歳が転職するには最終ライン。
私は30になるに前、小売業に勤めていたのだが、
店長と運営方針の考え方の違いで喧嘩をした。

この店長は売上が高い問評判だったけど、
実態としてはサービス残業当たり前で、
会社の数字ばかり見ていて、社員のことなど一切考えない人だ。

1時間前に出社は当たり前、
サービス残業は当たり前。

私も営業をやっていた時は、
始発ー終電で仕事をやっていた時期もあったので、
”やる意味”があるなら頑張れた。

しかし、この店長とは
価値観が合わない。

この人の下で働きたいとは言った際思えない人だった。
すごくドライ、何のために働いているのかわからなくなる人だった。

いつも出勤するたびに、嫌みを言われ続けた。
それでも私は我慢をして、仕事をこなす。

そんな日が1ヵ月続いた時、
急に馬鹿らしく思えたのだ。

私「俺の人生こんなんでいいのか?」

人生は一生に一回。
生活するために、我慢をしながら仕事をして
自分は満足するのだろうか??

以前介護の仕事していた時、
最後の人たちを見届けてきた。
その時に言われた言葉を思い出した。

患者さん「自分の好きなように生きればよかった。」
患者さん「自分に素直に生きればよかった。」

特別養護老人ホームでは、
無くなる方が入院されている。

昨日までは元気だった人も、
翌日なくなる事も多かった。

そんな患者さんがよく言っていたのは、
後悔の念。

時代が時代だったから
好きなように生きるのはとても難しかったと思う。

戦時中を生きてきた人たちは、
自由に生きるという事はとてもむずかしかっただろう。

私が人生最後の日に、何を思うのだろう。
どうせ思うのなら、人生後悔しない生き方をしたい!
そのように生きなければ浮かばれない。

そして、
翌日店長に退職届を渡した。

私「会社を辞めさせていただきます。。」

捨て猫と同じ環境

勢いで仕事をやめてしまった。
しかし、私は後悔もせず、清々し気分だった。

さて、これからどうしよう。
自由を手に入れた私は不安と期待でいっぱいだった。

最初に意識したのは生活費。
貯金も50万程しかなかったので、
何カ月まで生き残れるだろう。。。

それまでに稼がなくっちゃ。。

当てがないわけではなかった。
私は以前ネットで副業を探していた時に
”せどり(転売)”というビジネスに目を付け、
小売り業をやりながらせどりを行っていた。

副業で毎月月収10万程は稼げていた。
転売なんて簡単だと思っていた。

安いものを買ってネットで高く売ればいい。
その利ザヤが利益だ。

しかし、
副業と専業は全く違う。

初月は頑張って稼いでも月商30万で月収10万程。
これだと貯金が目減りしていく。。。

独学で頑張っていたけれど、
直ぐに天井が見えてしまった。
このままでは生活が出来なくなってしまう。。。

今までは当たり前のように、
会社に行けば固定給料が貰えていた。

いわば会社に飼われたペットだった。
しかし、独立してからはすべて自分で
今日のご飯でさえも自分で手に入れなければならない。
自由と浮かれていたのは最初の数日間。
直ぐに現実を直視して不安にかられた。。

生活するためには”お金”が必要だ。

それから私は”物販の塾”に入る事にした。
入会金は10万。
ただでさえ貯金はあまりなかったので、
大きな出費だったけれど、
自分で勉強するより、成功者に教えてもらったほうが
近道だと思った。

ホント、背水の陣だった。
24時間ずっと物販の事を考え、
ご飯を食べるのを忘れるくらい必死だった。

その結果。
1カ月後には月商100万
2か月後には月商200万と
結果がついてきた。

(ここまでできたのは出会った仲間の存在が大きい。
そして、貯金は少なかったので、クレジットカードを使って
キャッシュフロー(お金周り)を先輩社長から教えてもらった)

数年後には月商1000万を達成するのだが、
それまでに何度も何度も壁にぶつかり、
壁を壊してきた。

(物販の0から1000万の記事はここ。)

この経験が今でも生きている。
24時間物販の事を考えて、
トラブルがあったらどうやって壁を壊せて行けるか。

背水の陣で必死にやってきたからここまでこれた。
この経験を転用すれば、どのビジネスでも発揮できると思う。

そして、
お金の考えは、
30代で起業をしてから始めて向き合うようになった。

20代の頃は、
自分が華美な生活をしなければ、
最低水準の生活をしていれば、アルバイトでも暮らせて行けた。

今の時代、
十分な環境があるので、
実際必要なものと言えばそこまでかからない。

しかし、
30代になり、
自分が本当にやりたい事を見つめなおしたとき、
”お金”と言うものが必要だという事が
口で説明できるようになった(具体的な使い道)

物販をやっていた時は、
普段から”物販”を考えていたら、
結果が出た。

”お金”も一緒で、
普段から”お金”に意識をしていないと、
キャッチできないのである。(カラーバス効果)

私はお金をFXで稼ぐ。
”お金”に支配されるんじゃなくて、
”お金”を使う側になって、
自分の為に使うんだ。

ABOUT ME
トミー信長(Tommy Nobunaga)
池袋に住んでる30代起業家。 物販月商1000万プレーヤーだけど、利益が上がれば税金も増え、3度の税務調査に入られ世の中の仕組を理解する。 必ず投資家になって、将来地域投資家育成Proectを遂行する。「FXで稼いで人生が変わった!」を叶えたい人のためのリアルなブログを配信中。

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